こんにちは、カービーです。
7月2日の『どうする家康』では、大河ドラマ前半の山場となる家康の正室、瀬名(築山殿)と長男信康の最期が描かれました。
この注目回に合わせて浜松大河ドラマ館「葵広場」では1000人が参加してのパブリックビューイングも行われ、瀬名の最期のシーンに多くの人が涙。
しかし瀬名の最期となる『築山殿事件』を描いた放送を見て、地元民は「あれれ?」と思うところも多々ありました!
『どうする家康』をより深く楽しむ為に、“ドラマのストーリー”vs“史実”と比較しながら考察(茶々入れ?)をしていきます。
『どうする家康』のストーリーと史実の違いを楽しむ
歴史上の出来事は記録がしっかり残っているものは少なく、事実関係がはっきりしないものが多いですよね。
後世になって創作されたり、付け加えられた物語も多く、何が正しいのか歴史研究家の間でも意見が分かれるそう。
『どうする家康』に出てくる家康、瀬名、信康に絡むエピソードもそれぞれ諸説あり、何が真説なのかは定かではありません。
しかし事実が確認できないからこそ脚本に自由度が生まれ、ドラマとして面白いものが出来上がるのでしょうね。
『どうする家康』で描かれるストーリーと史実/通説を比べながら見ると、より深く大河を味わうことが出来るのではないでしょうか?
瀬名・信康死没の背景には諸説あり
『どうする家康』徳川の危機の始まりは瀬名の平和への願い?
『どうする家康』では、争いの絶えない世の中を憂う瀬名が“覚醒”、平和な世を築こうと武田との和平を画策します。
これに信康も賛同、歩き巫女の千代と密会を重ね、武田方と通じる工作を図る。
しかし最後には武田勝頼に裏切られ、その構想が信長へ漏らされます。
武田との密通(信長への裏切り)に信長は激怒し、徳川方は追い込まれてしまう。
この窮地から脱するべく、徳川家が生き残るために、瀬名・信康が自ら命を絶つことになったと描かれています。
瀬名・信康死没のきっかけは五徳の十二ヶ条の訴状
通説では、瀬名・信康の死のきっかけは、信康の妻、五徳が父である信長に送った十二ヶ条の訴状にあったとされます。
訴状には、瀬名・信康が甲斐の武田家と内通していること、瀬名・信康に対する讒言(悪口)が書き連ねられる。
これに激怒した信長が家康に対して瀬名・信康を自害させることを命じ、家康も信長の要求を呑むことになります。
しかし瀬名・信康と武田との内通については疑問点が多く、瀬名・信康を貶める口実だった可能性も高いと思われます。
当時徳川・武田間では頻繁に戦いがあり、武田方は長篠での戦いでの敗戦以降はおおむね劣勢であり、そこであえて武田方と組もうとはしないのでは?
それよりも五徳vs信康不仲説、五徳vs瀬名不仲説(五徳に男子が産まれないことで側室を置いたことでの軋轢)が訴状の背景になったという方が有力な説の様です。
(築山殿事件詳細はこちら☟)
家康が主導した説もある
信長の命令に家康が従ったと言う点についても、実は家康自身が瀬名・信康殺害を主導したという説もあります。
(信康の所業の悪さ、瀬名悪女説などが一部書物に書かれている)
実際に十二ヶ条の訴状が残っている訳ではなく、書き物として残っているものも事件から数十年後に書かれた三河物語などがあるのみで、この説も推測の域を超えません。
(これら書物は家康に近い者が書いていて、家康に都合の良い様に脚色されている可能性は高い)
信長による指示だったにせよ、本人が首謀したにせよ、最終的な決断は家康がしたことには変わりはありません。
家康を取り囲む徳川家の人間は全員善人?
『どうする家康』では徳川家全員が善人
『どうする家康』では、家康やその周辺の家族は全てかなり善人寄りで描かれました。
今回の事件に関しても;
・瀬名、信康はともに天下泰平を夢見て武田と通じようとした
・家康は窮地に陥った瀬名・信康を、身代わりを使ってでも救おうとした
・五徳は信康の正室として、また徳川家の一員として、瀬名・信康を救おうとした
・五徳の訴状は、家康が考えた瀬名・信康救済策のために、作り事をしたためただけ
・瀬名・信康は自身が生き延びるよりは自害して徳川家を守ろうとした
結果として家康(松潤さん)、瀬名(有村架純さん)、信康(細田佳央太さん)、五徳(久保史緒里さん)は大変良いイメージで描写されました。
これが脚本家、古沢良太さんの狙い(主役級をたてる)だったのかも知れません。
史実では家族間での軋轢あり、瀬名悪女説は?
前述の様に、五徳と瀬名・信康の関係に軋轢があったのはかなり有力な説。
何が発火点だったかは判りませんが、このもつれた人間関係の中で五徳から信長への十二ヶ条の訴状が書かれてしまった。
そこには瀬名の悪女ぶり、信康の素行の悪さも書かれていて(真偽のほどは不明なるも)、五徳が瀬名・信康にある種の不信感・嫌悪感を持っていたのは事実でしょう。
善意の徳川ファミリー全員で瀬名・信康を守ろうとした、という構図ではありませんでした。
(家康の案で五徳に嘘の訴状を書かせたという件もどこにも記録はない)
一方で長い間通説とされてきた瀬名(築山殿)の悪女説ですが、最近になって見直しの声が多く上がっています。
家康が正室を死に追いやった事の正当化のため、後世になってその様な話が流布されたのではとも考えられています。
瀬名は自害したのか?
『どうする家康』で瀬名は自害
『どうする家康』では、家康が瀬名・信康を救う案を考える。
瀬名と信康の身代わりを用意し、その者たちを殺して瀬名・信康が自害した様に見せかけ、別の名前で生き延びさせるという道を用意。
しかし瀬名も信康もこれを潔しとせず、二人とも自身の判断で自害します。
瀬名殺害説が有力
瀬名の最期については、徳川家の為に自害する様に家臣である野中重政に言われたのを拒み、重政に殺害されたとする説が有力です。
たしかに自らの意思での自害であればわざわざ佐鳴湖畔でする必要はなく、岡崎城か浜松城ですれば良い話ですよね。
瀬名の死後、首は安土城の信長の元に届けられた(むごい話ですが)とされる点からも、瀬名はやはり殺害されたのでは?
ちなみに”瀬名・信康の身代わりを立てる家康の案”についてはどこにも記録として存在しません。
最終的には信長が首を検分した訳で、身代わりでは無意味ですよね?
身代わりのくだりは今回のドラマでの完全なる創作でしょう。
(瀬名の眠る西来院☟)
信康の自害、介錯は服部半蔵ではない
『どうする家康』では信康咄嗟の自害、服部半蔵が信康を介錯
『どうする家康』では、服部半蔵が信康の身代わりを用意して、信康を逃す算段をします。
しかし信康はお家のため、また瀬名の自害を察し、咄嗟に家来の刀を奪って切腹。
最期は服部半蔵が「楽にして差し上げる」と信康が苦しまぬ様に介錯をします。
信康は堂々と自害
信康の自害は決して咄嗟のことではなく、腹を括って堂々と自害したものと思われます。
瀬名の死亡は1579年8月29日、信康の自害が10月5日と一か月以上の間隔があり、信康はとうに瀬名の死は知っていたはず。
瀬名の死を知って発作的に自害したとは考えられない。
自身の立場を理解しての覚悟を決めてのことだった様です。
服部半蔵は信康を介錯できず
服部半蔵は信康の介錯を命じられたものの、信康のいたわしい姿に首を打つことができず、刀を投げ捨て倒れ伏したとされます。
(介錯したのは検使役だった天方通綱)
信康はその時まだ満20歳、幼少期から良く知る若者(且つ主君の子)が不憫で首を打てなかったことは容易に理解できます。
どうする家康、瀬名と家康が佐鳴湖を船で渡る不思議!
『どうする家康』瀬名の最期は佐鳴湖でのシーン
『どうする家康』では瀬名が最期を迎える場面で佐鳴湖が出てきます。
瀬名は岡崎から瀬名の最期となった現場の小藪村(浜松市中区富塚)「大刀洗の池」に向かう際に佐鳴湖を船で渡ります。
家康も瀬名のもとに浜松城から船に乗って冨塚に駆け付け、また船で浜松城に戻ります。
佐鳴湖が今回の映像の重要なモチーフになっていました。
家康は佐鳴湖を船で渡っていない
このシーンに「なんで佐鳴湖で船に乗ってるの?」と唸った私。
佐鳴湖は周囲5.5kmとそれほど大きな湖ではありません。
一周歩いても1時間程度(私の散歩コース)、端から端でもせいぜい2km。
当時も周囲には道があったはずで、瀬名が船に乗って来た(どこから?)というのが俄かには信じがたい。
(浜名湖から繋がる新川を使って来たということだろうか?可能性はゼロではないが)
まったくあり得ないのが、家康が浜松城からの行き来に船で佐鳴湖を渡ったこと。
浜松城から冨塚の事件現場(大刀洗の池)は歩いて2.5kmの距離で、佐鳴湖はさらにその先。
浜松城-冨塚の行き来に佐鳴湖を使うことは絶対にあり得ません。
映像的な効果を狙った演出なのでしょうが、地元民にとってはかなり違和感があるところでした。
まとめ
『どうする家康』ではついに瀬名・信康が悲劇的な形で生涯を閉じました。
そこでは家康、瀬名、信康、五徳がお互いを思いやりながら、謀反の疑いを掛けられた瀬名・信康を救おうとした様子が描かれました。
しかし史実に照らし合わせてみると;
家康には妻子殺害を決断する思惑や謎があり、
瀬名には悪女説もあり、
信康には素行の悪さの噂もあり、
五徳には瀬名・信康に対する不信感があり、
決して全員が善人で円満に過ごしていた訳ではないことが示されています。
歴史とはかくも複雑にいりくんでいるものなのですね。
史実とドラマは違うことを理解して、『どうする家康』の後半戦をエピソードvs史実と照らし合わせながら見れば、大河ドラマがより深く味わえるのでは?
まだまだ『どうする家康』は楽しめそうです。
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